酒におぼれ、人に迷惑をかけては、自分を責めた。極度の神経衰弱者で小さい頃のトラウマが一生ぬけなかった。季語がない 自由律の俳句{5.7.5}ではない。
すべってころんで 山がひっそり
何でこんなに 淋しい風ふく
鴉啼いて わたしも一人
分け入っても 分け入っても 青い山
たまさかに飲む 酒の音 さびしかり
ついてくる犬よ おまえも 宿なしか
一人となれば つくつくぼうし
別れて遠い あなたの酒で 酔うている
雲がいそいで よい月にする
だんだん似てくる 癖の 父はもういない
あらゆる矛盾を蔵している私は恥ずかしいけれどこうなるより外なかったのであろう。本来の愚に帰れ。そしてその愚を守れ。
といっている。
ちなみに・・・・
小林 一茶は帰る場所をもった漂流者
松尾 芭蕉は弟子を連れて計画的
菅江 真澄は漂流者だけど人々の生活観察を目的にした
尾崎 放哉は晩年の3年間 漂流した
自分は哀愁あふれる「山頭火」が好み。ちなみに、こんなことも言っている。
「それが本当の俳句であるかぎり魂の詩だ。心の現れを外にして俳句の本質はない」
テレビの{プレバト}に出ている、俳句の夏井 いつき先生は山頭火の俳句をどう評価しているのだろう。画面を通じて聞いてみたい。
ではまた・・・・